蒼穹のアルトシエル

書き下ろし自由短編「自由落下まで残り386秒」

「んん……」
僕は丸みを帯びた大きなボディを、少しよじらせた。
ずっと高い天蓋に張り付いていたせいで、体の節々が固くなってしまったような気がしたのだ。
層になるほど積もっていた灰が、体の表面から剥離する。
「やれやれ、ひどい空気だね……。ちょっと動かないでいるとすぐこれだ」
僕はひとつ咳払いをした。
そこにも真っ黒な灰は混じっていて、まるで雪のように舞い落ちていった。
眼下の暗雲が黒い雪を飲み込んで、僕はその光景にのどをヤスリで削られているような気分になった。僕が訪れた廃棄階層第二〇二四層は、想像以上にひどいところだった。
天蓋から見下ろす景色は、どうしようもなく汚れきっている。大気はドス黒く粘つき、ぶ厚いケミカル雲が遠くで酸性雨を降らせる。
生身でいたら、数日と経たず体が腐って死んでしまうのではないだろうか。
「……まぁ、人の身ではない僕には、関係のない話なんだけどさ」
幸いにして、僕の体は特別製だ。稀代の人形師が設計し、都市ひとつ分の開発資材を投入して製造された高性能義体。白皮の外骨格は堅牢で、環境汚染なんて物ともしない。
この無限に続く階層を踏破するために生み出された、故郷の文明の結晶だ。
さて、のどに詰まった灰も吐き出した。今日も挨拶の練習をしておこう。
「やあ、僕はアルトシエル! 下の階層から来た冒険者だよ! ……んー、軽い調子すぎるかなぁ。出会いは第一印象が大事って言うけど、僕の外見は印象最悪だからなぁ……」
八つの目に丸みを帯びたセラミックのボディ。そこから生える節足は、どう見ても巨大な蜘蛛そのものだ。設計者の老人を心のなかで恨む。
「あぁ、緊張するなぁ。仲良くなれるかなぁ。けどそうも言ってられないよね。そろそろ接触を図らないと」
僕の目当ては、この天蓋のはるか下で、黙々と地面を歩く黒髪の少年だ。
都市と遺跡を往復する資源回収者。この階層ではよく見かける労働者の一人だった。
何の変哲もない装備。ルーチンワーク化された行動。顔はちょっと格好いいかな。
おおよそ平凡な身なりだが、彼は僕にとって誰より必要な存在だ。
針の先ほどの少年の姿を、八つの眼球が精細に拡大する。高性能レンズの分解能の前には、濁った大気など問題にもならない。
使い込まれた耐環境服を着込んだ少年が、硬そうな保存食をかじっている。どうやら遺跡から帰る途中で、腹ごしらえをしているようだ。
「そういえば、お腹すいたな……」
外骨格は半永久的に動くし、生体部品の維持に必要なタンパク質もごく少量で構わないのだけど、人としての精神が食事をしたいと訴えかけていた。
「よし、声をかけよう。すぐかけよう。そしてご飯を分けてもらおう」
臀部から二液混合式の特殊糸を吐き出し、それを伝って天蓋から降りようとしたところで、彼と目があった。
血のように紅い瞳が、僕の姿を捉えている。
すごい。こんな離れた上空にいる僕を見つけるなんて。
「これは運命的な出会いになりそうだよ……!」
感動しながらつぶやいた僕の横を、銃弾がかすめた。天蓋に弾かれて火花を散らす。
「お、おやおや? ずいぶん刺激的なご挨拶だね」
スコープの付いた大きなライフルの銃口が、しっかりこちらを狙っている。
彼は僕を敵だと勘違いしているようだ。いや、してもおかしくない姿だからこそ、どうやって声をかけようか悩んでいたのだけども。
「あ痛っ!?」
また撃たれた。汚染灰で汚れた白皮を、大口径の銃弾が削る。
これはもう考えている場合ではない。急がないと、仲良くなる前に撃ち落とされそうだ。
僕は天蓋から手を離し、ずっと会いたかった彼の元へとダイブした。
「ねえ、ヘイエ君! とても、とても遅くなってしまったけど! 僕はちゃんと迎えに来たよ! 冒険の旅はこれから始まるんだ!」
──行こう。今度こそ、キミと一緒に蒼穹を見るために。