愚者のジャンクション[—真聞『ハンムラビの復讐』—] 【ーside evilー】発売記念  夜月の書いた『真聞』を一部を特別公開!

『目には目を、歯には歯を』の意味を、多くの人々が誤解している。
 ハンムラビ法典は最も古い法律の一つだ。これは、その有名な前文であるが、主に二つの誤解を孕んだ言葉であるとも言える。
 まず『復讐法』であるという誤解。これは文明人が持つにはあまりにも過剰な復讐を、抑制するために作られたものであり、復讐を推奨するものではない。
 そして『禁止法』であるという誤解。当然だが、法律が生まれただけで復讐がなくなることはない。抑制には限度があり、司法が狂えば、抑制は単なる弾圧へと切り替わるだけだ。司法の正気は誰も保証ができない。ゆえに復讐を否定するものでもない。
 卵が先か鶏が先か、という議論すら不要だ。法律が存在する限り、復讐も存在する。


 飼育部という団体がいた。その部長である翡翠は、復讐を次のように語っている。

「やりたいことをやるのを『いけない』という奴は、生きている価値がないよ」

 彼女は価値を重視していた。たとえ、周囲から天才と呼ばれようと、そのことに価値を見出さなかった。だから、誰もが羨むものでも、あっさりと捨て去ることができる。
 倫理を捨てたのに、礼儀を重んじたのは、後者には価値があると認めたからだろう。
『飼育部の友情は絶対』という、彼らだけの決まりがあるが、これは翡翠が友情には価値があると信じていたからだ。
 ゆえに、価値ある友情を捨てる人間を許さなかった。捨てられた側に立ち『飼育部』を作った。決して褒められる行為ではなく、もはや常識を疑う話ではあるが、仲間からだけは絶大な信頼を得ていた。それが、彼らの呼ぶ『友情』なのだろう。
 同時に、飼育部は翡翠の絶対的な支配にのみ支えられている団体であり、個人としては絶望的に社会から隔絶された。当人達も分かっていたが、檻から出るのは不可能だった。
 これが、後に語る悲劇的な事故を必然的に引き起こすことになる。

 翡翠の語る友情と、対極の価値観を持っていたのは、我が校に招致された天才たち−−特進科の生徒である『薬師』の黒田と、『美食家』の青山だった。
 黒田と青山は犬猿の仲であり、この二人のいるところには争いが絶えないが、皮肉な程に彼らは似ている部分がある。同族嫌悪なのだと書けば、怒るに違いない。
 他人のことを、黒田は実験動物と認識しており、青山は食材と認識している。
 翡翠が非常に狭いながらも、コミュニティを作ることに価値を見出したのに対して、この二人は他人の全てに興味がなかった。強いて言えば、青山は食材としての品質に拘りがあるだけマトモだろう。黒田はその一線すらも越えて、絶望の下に他人を見下している。
 しかし、黒田に正気を求めるのが筋違いであることは、後述する彼の『事情』において明白だ。彼をあそこまで追い詰めた結果、教頭がようやく重い腰を上げたのだから、ある意味で黒田が行ったことは救世に近い。
 この文章が世に出る頃には、悪態と罵倒をもって裁かれているかもしれないが。黒田の言葉を借りるなら、その世間の醜さと愚かさと滑稽さは、一言に集約される。

「ストレスは他人に擦り付けた方が心地良いからです人間とはそういうものだ」

 彼はこの恐るべき信念を曲げることは一切なかった。その点においては、常軌を逸した精神の持ち主だった。だから彼は、我々を『悪党』と名付けられたのだ。


 私が当初思い描いて、同じく特進生である『女優』の黄紗良に任せた舞台脚本は、この二つのグループを同時に動かすためのものであった。
 黄紗良から受けた忠告は、あらゆる意味で正しい。

「私は演じられるけど、素人がやると絶対に上手くいかないわよ。破綻する箇所は三つ。絶対に青山さんが勝手に動くから、適当に灰賀さんでもぶつけておいて。翡翠さんは確実に嵌められるけど、普通科の連中がどこまで馬鹿なのか、私は馬鹿じゃないし予想できないから適当に書くわ。最後に、夜月さんが『役割』を演じきる覚悟がないなら、脚本は書かないわよ。私が見たいのは、あくまで『真聞部』の夜月さんの演出なの」

 最終的に、全てが彼女の言う通りとなった。想定外の事故が起こり、脚本は全てにおいて前倒しとなった。しかし、骨組みとアドリブについての補足もあったため、大枠が崩れずに済んだのは、黄紗良が役者としてだけではなく、『物語』というものの分野において優秀だった証だ。
 ちなみに、彼女が私に求めた『役割』は、嫌がらせ以外の何物でもない。本来は黄紗良が演じる役を、政治的な理由で私が奪ってしまったのだから、ある種当然だろう。
 彼女なら、私より上手く演じたに違いない。しかし、黄紗良は「演出は個性だから」と言い、舞台の出来映えについては、概ね満足しているようだった。


 その前提を踏まえて。
 先日に起きた惨劇である『エーミール事件』について、『復讐者』である十文字の視点から、起こった事実を記述しよう。

 
 割愛 −side friendship−


 以上が、世間を震撼させた、俗に言う『エーミール事件』の主な内容である。
 これは復讐者の物語である。
 ゆえに、復讐が中心の話題となるが、この事件は復讐を賛美するでもなく、復讐を否定するでもない。
 ただ、そこに復讐者がいた。事実はそれだけだ。
 この復讐者に対して、警察や司法関係者は、「いつものことだ」とあまりにも短絡的に対応してしまった。それが現在も物議を醸し出している問題の発端となったことは、多くの人々が知る事実である。

「十文字の復讐は正しい」

 ネット上に少なからずあったその声は、やがて叫びへと変わり始めた。そんな若者たちの行動を問題視する人々は、未だに何も分かっていない。
「復讐はいけないことだ」
 その言葉を使う人間を正気と呼ぶのは、既に前時代的な価値観におけるものだ。
「なぜ復讐はいけないことなのか」
 この問いに多くの人々が答えられない時点で、司法は次のステップに踏み込む必要性を強いられたのである。

『飼育部』と『復讐者』の物語は、これで終わりだ。
 しかし、彼の視点から得られる情報だけでは、この事件の全貌を掴むことは不可能だろう。それほどに、エーミールと悪党の騙し合いは、事件を複雑化させたのだ。

 これは一方的な解釈の一つに過ぎない。なぜなら、全ては十文字の供述を下に語られている言説だ。彼が見て、彼が語り、彼にとって都合の良いだけの事実。この時点で、情報はまったく平等ではない。
 十文字の認識していた事実のみを抜き出せば、読み取れる情報の量は少ないと、多くの人々が思うだろう。実際、十文字にとって今回の事件は、一方的で受け身なものだった。
 十文字は凡人だ。名探偵ではない。
 彼はそのことを、重々承知していた。しかし、翡翠と通じる価値観が、それらを覆してでも行動させるに至ってしまったのだ。
『飼育部の友情は絶対だ』
 翡翠の作りだした唯一の法は、現実問題、十文字という怪物を檻に入れて飼育するためのものだった。
「復讐をしよう」
 そんな圧倒的な暴論を抑える手段を、彼女でも見つけられなかったためである。人間の価値観はそれぞれ違い、同じものを差し出すのは不可能だ。ゆえに、十文字は単に自分が望むものを奪う形でしか、復讐という手段を遂行することはできない。
 そしてそれは、倫理の壁を平然と乗り越え、際限のない地獄を生み出す。それを私たちが『エーミール事件』と名付けたことを、改めて記憶しなければいけないのだ。

 この物語における「加害者」が誰であるか。もう一度、精査し直す必要があるだろう。
 なぜ、十文字はエーミールになれなかったのか。
 そもそも、エーミールとは何だったのか。
 それは偶然の産物でもあり、結果的に必然でもあった。事実を積み重ねていった当然の帰結と言えるだろう。

 天才と呼ばれ、特進科に招集された六人の生徒たちがいる。しかし、その多くが、自分は天才ではないという自覚があった。そして、唯一本物の天才について、教頭は次のように証言している。
「天才は賞賛され、拍手喝采と共に迎えられる。でも、それは関心のない凡人のもつ感情だよ。本物の努力をし続けてきた多くの人々を、単純に才能で追い抜くんだ。彼らには天才を恨む義務がある。天才は憎まれるくらいが一番正しい。死んでから時の隔たりの後光に包まれて、後世の教師から『模範生』と語られるのさ」
 教頭の目的は一貫としていた。だからこそ、特進科の今後を考えただけに過ぎない。
 車輪の下にどれだけの人々がいようと、一度はそれを崩して組み直す必要がある。
 我々の総意がそこに集約された時に、このシステムを何と名付けるか。私は教頭の言葉の引用元を辿り、ふと口にした。

 エーミール。

 名前が決まった後は、この怪物の制作に時間も手間もかからなかった。既にそれは概念として確立されていて、翡翠という存在がいれば勝手に膨張する。こうして、エーミールはいとも容易く機能し、これだけの事実を半自動的に作り上げた。
 語られ続けていた『役割』。これもまた、事実の前には些細な概念に過ぎない。

 この世に真実などない。あるのはただの事実と、それぞれに都合の良い解釈だけだ。

 分からないと、ブラックボックスに入れてはいけない。
 分からないと、目を逸らしてはいけない。

 では、本来のスタート地点である、エーミールの「犯行予告」から物語を再考しよう。


 割愛 −side evil−


真聞『ハンムラビの復讐』から抜粋 夜月

 割愛されたすべての“事実”は、『愚者のジャンクション-side friendship-』『愚者のジャンクション-side evil-』に。 哀れな復讐者と、孤独な天才が交差する物語——。事件編【-side friendship-】好評発売中!/解決編【-side evil-】11月1日発売!